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仕事をすると寿命が縮みます。

なぜならば。

しごとだけに、

SHI(=タヒ) go to…

 

ダジャレはさて置きましても、仕事をするとストレスで寿命が縮むことは恐らく確かだと思われます。

しかしながらに、仕事をしないと今度は無収入で寿命が縮むとも考えられるため、物事というのは複雑です。

彼方立てれば此方が立たぬ、此方立てれば彼方が立たぬ。世の中ままならないですね。

ままならないのもそうですし、社会というのは往々にして「お前が(他人の思うが)ママになるんだよ」という感じなのがつらく厳しいところです。

 

ところで皆さん、幼年期に「仕事とは何ぞや?」と思ったことってありますでしょうか?

どうしてか大人になったら仕事というのをしなければならないらしい、しかしながらに仕事というものがどうにもよくわからない。

仕事とは何ぞや? と……

 

自分は割と思ってました。

仕事をすると何故かお金が貰えるらしい、けれども毎朝仕事に出掛ける親が具体的に何をしているのかはよく知らない。

年齢を重ねると、『どんなお仕事があるのか調べてみましょう』的な課題が学校で出されたりして、世の中いろんな仕事が存在することは分かるのですが。

しかしながらに『仕事とは何か』の解説は誰もしてくれません。

「やるのが当たり前なんだから、そこに疑問を挟む余地は無いよね?」と言わんばかりです。

例えるなら、目の前に急に恐竜図鑑を広げられて恐竜の種類があることは説明してくれるけど、そもそも恐竜って何なの?という解説を抜かされているような感覚です。あたかも知っていることかのように話は進んでいくんですが、一番知りたいのはそこなんですよね……

 

という訳で今回はそんな『仕事とは何ぞや?』の記事です。

もしかしたら役に立つかもしれないし、基本的には役に立たないそんな内容になります。

 

さて、もし「仕事とは何ぞや?」とその辺の人に聞いた時。

ともすれば「やるとお金が貰えるもの」と返ってくるかもしれませんが、しかしながらに仕事という言葉にはいろんな意味合いがあります。

例えばファストフード店のレジに立って来店客からのオーダーを厨房へ伝えつつ代金を回収した後に出来上がったハンバーガーを渡すのも仕事ですし、はたまた学校の先生からの「申し訳ないけどこのノートを誰々さんに返しておいて」という頼まれ事をこなすのも、広い意味では仕事と言えます。

つまり、仕事という言葉の定義に金銭の発生は含まれません。

 

では尚更に仕事とはいったい何ぞや?となる訳ですが、そこで仕事という漢字に着目してみます。

日本語、特に漢字というのは便利なもので、知らない熟語も漢字の意味が分かれば概ね意味を察することができます。

という訳で早速『仕事』を分解していきましょう。

『仕』は、訓読みすると『仕える』。

言い換えれば特定の誰かの役に立つ、力になる、といったところでしょうか。

『事』は、その通り読んで『こと』。

事柄、はたまた広くは案件といった意味合いなんかでも使いますね。

つまり『仕事』とは、平たく言えば『仕える事』と言えます。文字通りに文字通りですが熟語というのは得てしてそういうものだったりします。

そしてここで考えるべきことは、相手がいてこその『仕える』なので、『誰に』が抜けている点です。

という訳で、ケーススタディとして前述の例え話を持ってきてみます。

ファストフード店で仕える相手とは、雇用主、つまりお店の店長です。

よってファストフード店で仕事をする場合は、『店長に仕える事』、店長の役に立つことになる訳です。

対して学校で先生にお願い事をされたケース。

先生のお手伝いなので、その通り『先生に仕える事』、先生の役に立つ、ですね。

 

さて仕事の辞書的な意味合いが分かったところで、生じる疑問が一つあります。

そもそも、何故に仕事が生まれるのか?という部分です。

例えば店長から、ともすれば不理解から来る仕事関係のお叱りを受けた時『じゃあお前が全部やれよ』とはつい思いがちですが、では何故、店長は自分で全部やらないのでしょうか?

先生が「申し訳ないけど誰々さんにこのノート返しておいて」と言った時、『申し訳ないくらいなら自分で返せばいいのでは』とつい思いがち……かどうかは分かりませんが、何故先生は自分で返しに行かないのでしょうか?

 

これについての答えはごく簡単で、『自分でやるのが不可能・ないしは困難だから誰かにお願いしている』になります。

基本的な大前提の話として、人間一人がこなせるタスクは一度に一つだけです。

身体は一人一つなので、二つのことを同時に出来ないのは自然の摂理と言えます。昨今叫ばれるマルチタスクについても『できる人は切り替えが上手いだけ』という風に否定する説もあるくらいには、人間が一度に取り掛かれることは限定されています。

ファストフード店で言えば、経営・経理と発注と厨房とレジ・オーダー受けは……料理店という側面で考えればワンオペでやっているお店も存在するかとは思われますが、しかしそれぞれ分割して人数で振り分けた方が明らかに圧倒的に楽です。

また、営業時間の存在を加味した時、ファストフード店でそれらを一人で賄おうとするのは自滅という他ありません。正しく寿命が縮むSHI go toになります。

同じく学校の先生にも、多々仕事があります。授業をやらなくてはいけない、授業の準備をしなくてはならない、生徒の人数分の成績管理を進路指導をしなくてはならない行事があればその企画進行安全衛生管理もあり、何なら部活動の顧問とかまでやっているとより一層地獄かと思われます。ノート一冊返すための時間を無くせるならばその方が有り難い話なことは、察するに余りあります。

 

つまり仕事というのは、本質的には『誰かの代わり』です。

それは例えば請負人という分かりやすい形でなくとも、仕事であるならば押しなべてそうです。人類最強である必要もありません。

 

閑話休題西尾維新の話は脇に置きます。

さて、仕事が生まれる要因が判明したならば、次に生まれる疑問は『金銭発生の分かれ道』です。

ファストフード店と先生からのお願い、どちらも同じ『仕事』なのにどうしてお金が貰えたり貰えなかったりするんでしょう?

 

これについても答えは簡単で、『付加価値の有無』になります。

付加価値とは、例えば無価値な真っ白い紙切れにイラストが描かれたことで値段が生まれるないしは上昇する、といった場合の『イラスト』が付加価値に該当します。

より身近な例えだと、人が漫画を買う時でしょうか。

「紙の束が欲しいから」が購買理由であることは基本的になく、中身である『漫画』という付加価値にみんなお金を出します。ともすれば初回版限定特典とかが目当てかも分かりませんが、少なくとも『紙の束』が目当てではありません。

『紙の束』に描かれた『漫画』(ないしは付いている特典)にこそ、購買者にとっての価値が存在しているのです。

このように、何かに価値を付与するもの、上乗せするもの(ないしはしているもの)を、専門用語で付加価値と言います。

転じて、『お金を払ってでも欲しいもの』を付与することとも言えます。

 

ではファストフード店の仕事をこなすことの付加価値とはなんでしょうか。

様々ありますが大きく二つほど考えられ、一つは時間と労働力の融通、一つは誰でも良い訳ではない点です。

ファストフード店フランチャイズを想定します)の店長は、営業時間という守らなければならない制約を乗り切るために、一定以上時間と労働力に都合のつく人材が欲しいと考えます。

従業員が私用があるからと勝手にシフトを放棄したり昨日徹夜してて眠くなっちゃったし疲れたからと途中で帰られたりすると大変に困る訳ですが、そういったことをせずに時間を順守してちゃんと働いてくれることが、店長からすれば価値のある人材となります。

私用にも使えるはずの時間と体力をその仕事のみに融通する、というのが付加価値に相当する訳です。

また誰でも良い訳ではないというのは、仕事のルーティーンをこなせること(基本ながらに重要です)や、不正を行わない(レジからお金抜くとかは最悪です)、その他変なお客からの絡みにめげない(世の中には色んな人がいる)といったような、能力・倫理・忍耐に基づく点が挙げられます。

敢えてひとまとめにするならば『店の維持・利益に貢献する労働力』が最大の付加価値な訳ですが、内訳をざっくり見るならば上記2つが主たるところと思われます。

こういった人材が捕まらない場合、店長には地獄のワンオペ、SHI go toが待ち受けることとなります。店の利益の幾分かを支払ってでも、作戦:いのちをだいじにを選んだ方がきっと得策です。

そして逆に従業員からすれば、給料貰わないとやってられないことばかり(特に変なお客からの絡みがきっと大きいウェイトを占めるでしょう)となるため、もし提供する付加価値に見合わない報酬ならば、離れるかそもそも仕事に就かないか、という結末となりますね。

 

対して、学校の先生からの頼まれ事です。

付加価値が無いと言えば大袈裟でありウソですが、しかしながらに「学校の中で完結する=運搬距離が短い」というマイナス点や、付加価値以外の要素である「先生との関係性(親密であるならばただのお手伝いとして往々に成立しがちであり、またそうでなくとも無報酬だからと断れば成績評価者である先生の心象を損ねる)」の部分だったり、「そもそも報酬を設定すると事案発生になる(先生が明日の朝刊に載る)」「報酬を交渉した段階で恐らく先生が諦めるか他の子に頼もうとする」といった要因が考えられ、少なくとも金銭的な見返りを見込むのが土台難しい話です。

ルールに厳しくない優しい先生なら後でこっそり何かくれたりはあるかもしれませんが、しかしながらに仕事として捉えた場合のノートの受け渡しはそんな感じになります。

 

同じ仕事でも、というところで、この辺りは『仕事』という言葉を英語に置き換えた方がきっと分かりやすいです。

何に置き換えるかと言いますと、みんな知ってる英単語のワーク・タスク・ジョブ・ビジネスです。

どれも同じ『仕事』という言葉ですが、しかしながらに別々の意味を含みます。

そこで、ワークは『働き』に変換するとしまして。

タスクは『処理すべき事柄』。

ジョブは『職業』。

ビジネスは『営利(平たく言えば利益です)目的で執り行う仕事』。

という定義をした場合。

仕事そのものを『タスク=処理すべき事柄』と捉え、またタスクを処理するために動くことを『ワーク=働き』としたならば、このタスク・ワークが金銭的な付加価値を伴った場合、即ち『お金を払ってでもやってもらいたい』と人に思わせられた場合に『ビジネス=営利目的で執り行う仕事』が成り立ち、それを専門的に生業とするのが『ジョブ=職業』と言えます。

仕事という言葉が意味を包括的に持ち過ぎているために、時にはこうやって他言語の力も借りて分解すると非常に分かりやすくなります。

 

だから結局、巷で大人がやらなければならない(とされている)仕事というものを一言で言うならば、『お金を払ってでも誰かにやってもらたいこと』なんですよね。そりゃあストレスも貯まるでしょう。

だって『お金を払ってでも誰かにやってもらいたいこと』なので……

よく漫画家を描いた漫画に出てくる「好きな漫画描きたいなら趣味でやれば?」的な台詞は、概ねこういう辺りに起因します。読者が喜ぶ=お金を払ってくれる漫画が描けないなら、あるいは独りよがりに好きなものを描きたいなら、趣味で描けばいいんじゃない?という。

残酷さを有する反面、仕事が誰かの代わりである、つまり漫画家の場合だと『読者の代わりに面白いものを生み出す』のがこなすべき役割となるだけに、避けることのできない壁でもあります。

少なくとも自分には不可能なお仕事です。

他にも害虫駆除の仕事だったりとか、やけに覚えることの多そうな現代コンビニのレジの仕事だったりとか、自分だったらお金貰ってもできないか貰えるお金が仕事に対して少ないからやりたくないかの2択になりそうです。

日々誰かの仕事に感謝しかないですし、人類全てがそれを理解していたならみんなもっと他人に優しく生きやすい世界になるかもしれないし、やっぱり全然ならないかもしれないですね。

 

そしてまた、そういう意味で今の資本主義社会におけるお金の役割は、『誰かの代わりたる仕事をこなした証』でもあります。

人間一人が出来ることはタスク処理の意味でも、そして適性という個々に大きな制約を有する意味でも限られています。

社会という大きな共同体で『誰かの代わり』を循環させることで社会に発生する諸問題を解決し、そしてお金という証による潤滑油によって文明発展を後押しする。

資本主義社会とは凡そそういうもので、だからこそ仕事をしなければお金が得られず、生活もできず、結果として社会から疎外されていきます。

 

早く疎外されても自由に生きていけるだけのお金、欲しいですね。

もっと言うと仕事したくありません。

 

出来ることなら仮に仕事をするのであっても、日々ワークワクしながら向かえるお仕事に就けるときっといいですよね。ワークだけに。

ダジャレで締められたのでおしまいです。